スポンサーサイト
    - --/--/--(--) -
    上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
    新しい記事を書く事で広告が消せます。
    この記事のURL | スポンサー広告 | ▲ top
    招福
    - 2008/03/26(Wed) -
    リビングを出ようとドアを開けたら
    短い廊下の
    突き当たりの部屋の前に
    大きな猫がいた。

    ドアにもたれて
    お腹を見せて毛繕い?

    むっちぃ? 
    違う。
    似ているけれど毛並が違う。
    みっちぃ?
    違う。
    似ているけれど
    みっちぃはリビングの中にいる。
    それに 似ているけれど
    お腹のまわりは倍ほどある。

    ドアを閉めて確認。
    やっぱり私の後ろにみっちぃはいる。

    もう一度ドアを開ける。
    やっぱりその大きな猫はそこにいる。

    もう一度ドアを閉めて
    リビングにいる家族に
    猫がいることを伝えたら

    「ああ いるね」 と当たり前のような返事。

    「そっとしておけばいい」
    「あの猫は招福だから」

    そうか 招福なのかと納得して
    もういちどドアを開けて猫を見る。
    猫は同じ場所でお腹を見せている。

    目が合う。
    見つめ合ったまま そのままで
    大きな猫はそこにいる。


    昨夜真夜中に見た夢だけど。

    大きな猫は
    いつも傍にいるのかもしれない。
    気付かないだけ。 多分。

    2008/03/26(水) 06:58:06
    スポンサーサイト
    この記事のURL | ひとりごと・日常 | CM(0) | ▲ top
    沈丁花
    - 2008/03/16(Sun) -
    寒さ厳しい日が続いたせいか
    今年は、沈丁花の花が咲くのが遅い。

    1週間前位から咲き始めたのかな?
    ご近所の方が、
    家の前に植えてある沈丁花の枝を数本
    切り取って、下さった。

    雨だったから・・金曜日。
    2日前だ。

    夕方帰宅してあれこれとしているときに
    インターホンが鳴ったらしいけれど、聞き取れなかったようで、
    薄暗い時間になってから
    家族が花が玄関の前に置いてあったと、持ってきた。

    沈丁花と、庭で採れたという丸大根と
    スーパーのチラシの裏に書かれた手紙と。

    早速丸大根を炊いた。
    ふっくらと炊き上がり、美味しかった。

    沈丁花は息子の写真の横に置いた。
    部屋の周りにはぷうんと強い花の香りが漂う。
    早春の香り。

    今年は開花が遅かったから、
    沈丁花が咲いた、もうすぐ春だ! 
    と言う感激がなんだか 少し薄くて、
    なんとなく花に申し訳ない気がするけれど、
    今年も咲いてくれて ありがとう。

    20080316.jpg

    2008/03/16(日) 23:41:42
    この記事のURL | ひとりごと・日常 | CM(0) | ▲ top
    今は
    - 2008/03/13(Thu) -
    幸せとは何か という問いには
    幾つもの答えがあるように思うけど、
    あなたは今 幸せですか?
    と人に聞かれたら、

    幸せな時もあるし
    そうでない時もあるけれど
    概ね幸せですと 答えるだろうと思います。

    楽しい日もあり、ありがたい、幸せだと思う日もあり
    この世のなかで自分が一番不幸なように思える日もあり。
    どちらの日もある、ということは
    どちらかというと幸せだということですね。
    死にたくなるような苦しい日が続くときには
    幸せだなとか嬉しいとか、全く感じなくなるものね。

    だけど幸福か不幸かは、二者択一のように選べるものではない。
    どちらかが多く
    どちらかが少なく、
    大きく感じるか
    小さく感じるかの違いだと思う。

    とても大きな幸福感を感じた経験は一度だけあるけれど、
    あれが最高の幸せ・究極の幸福感というものだろうと思う。
    絶対的幸福ともいうのかな。
    どんなことも喜びに思え、嬉しくて嬉しくて仕方ない。
    本当の幸福とは自身の心にあるもの。
    たまたま感じることができたのは、とてもラッキー。
    苦しんだから経験できたことでもあった。
    今思えば、小さな苦しみだったと思うけど。

    その後に息子を失った時に
    その時のことを時折思い出したりしたけれど、
    苦しみが大きな山のように立ちはだかり、
    とても考えることなどできなかった。
    目の前の悲しみが強かったり、大きな苦しみがあるときには
    幸福など忘れ去ってしまう。

    そしてその苦しみが薄れてくるとまた
    目の前の幸せというものしか見えてこなくなったりする。
    人間ってやっかいなものですね。

    苦しみや悲しみは人生のスパイス
    と言った人がいるとか。
    スパイスが効きすぎるのは避けたいけれど、
    効きすぎてしまったときには
    刺激的な人生だと思うようにしておこう。

    そのなかで喜びや楽しみを感じることを
    増やしていけばよいと思う。
    その数が多いほど、
    幸せだと思う回数も増えてくるように思います。

    2008/03/13(木) 16:34:19
    この記事のURL | ひとりごと・日常 | CM(0) | ▲ top
    幸せ
    - 2008/03/12(Wed) -
    ある小説に、ある家族に飼われていた
    幸せな犬のことが書かれていた。

    太った犬で
    自分を犬だとは思っていない。
    あんまり役にも立たない犬。

    でもその犬がいることで
    家族は幸せな気持ちになる。
    家族は犬を幸せな犬だと思ってる。
    最後は突然死んでしまって
    庭の大きな金木犀の木の下に埋められる。

    動物は幸せだなんてこと思わないだろうね。
    ただ心地よいと思うだけだろうか。
    そういう意味で
    私の家にいた犬は幸せだったのかもね。

    猫はどうかな。
    むっちぃも幸せだったと思うけど
    最期は幸せじゃなかったね。

    てんかんのふーちーはどうだったかな。
    発作の時は苦しかっただろうね。
    幸せな時は少なかったかもしれない。
    最期はどうだったんだろうか。

    そう考えていくと
    幸せというものがわからなくなる。
    心地よいことが幸せなら、
    裕福で健康で楽しい毎日は幸せといえる。
    充実して感謝の多い毎日は幸せといえる。
    家族に看取られ穏やかな最期を迎えたら幸せといえる。
    では不幸な死に方をすれば幸せではないのか。
    病気や障害を持つ人や苦労の多い人は幸せではないのか。

    難聴になる以前から手話ができることを
    幸せだねと言われるとちょっと違うと思う。
    息子がオブジェとなって目に見える形で存在することを
    幸せだねと言われるとちょっと違うと思う。
    残った家族が元気でいることを
    幸せだねと言われるとちょっと違うと思う。
    特に苦労なく生きられることが
    幸せではあるけれどそれはまたちょっと違うと思う。
    自分でもそのことを「幸せなこと」と言うけれど
    やっぱりちょっと違うと思いながら言っている。
    それは今この日本という
    物質的に豊かな国にいる私が考えることではあるけれど。

    でもいまここに生きて存在していることは
    「幸せなこと」 
    それははっきりとそうだろうと思う。

    2008/03/12(水) 09:58:20
    この記事のURL | ひとりごと・日常 | CM(0) | ▲ top
    差別と偏見
    - 2008/03/09(Sun) -
    差別、偏見はなくならない。
    私自身も全くないとはいえない。
    受刑者に対してあたたかい気持ちを持てないように。

    以前、ハンセン病をテーマにした映画を観た。
    気の毒にと思っていても
    それまでその病気について詳しく知らなかったから
    恐れに似たようなものを持っていた。
    過去にハンセン病の人の宿泊を断った旅館があったけど
    一緒のお湯に浸かりたくないと、その旅館に賛同する人も多かった。
    その旅館を差別だ偏見だと批判している人も
    実際に病気の人達と一緒にお風呂に入れるのだろうか。
    私?
    私も正直言ってわからない。
    周囲にはひとりもいないから。
    でも、その人達と友達になれば、気にはならなくなるだろう。

    ハンセン病の人達がどんな思いを味わって生きてきたか、
    私は映画を観、本を読んで初めて詳しく知った。
    病気になったのはその人のせいではないのに。
    その人生は暗くて重い。
    だけど魂は輝いている。
    ハンセン病である詩人の、桜井哲夫さんという方の詩も すばらしい。

    ハンセン病の方の話ではないけれど、
    子どもは差別をする知識を持っていないから
    まず見た目で判断すると思うのね。
    人と違う容姿であれば、
    なんとなくこわいと感じて近づかないのが自然だと思うけど、
    息子の場合は全然お構いなしだった。
    おしゃべりには行くし
    遊び相手にはするし、(してもらうですね)
    他の人に対してと同じ人懐っこさで接してた。
    外見の違いも息子にとっては発見であって、区別するものじゃなかった。

    でもそれはやっぱりその相手にもよるのかとも思う。
    その人は心の優しい人だったから
    息子もそれを感じて、安心して近づいていったんだろう。
    人間としての雰囲気がよい人なのです。
    人間としての本質が優れているのでしょう。

    息子も本質が優れていたと思う。
    本質とは 魂のことをいうのかもしれない。
    魂を 磨いていきたいと思います。

    2008/03/09(日) 18:34:41
    この記事のURL | ひとりごと・日常 | CM(0) | ▲ top
    差別
    - 2008/03/08(Sat) -
    自分では差別意識はあまり持っていないと思う。
    あまり というのは
    全く持っていないとは言い切れないからだ。

    若い頃に付き合いのあった友人は、被差別部落出身です。
    あるときにそのことを知りました。
    友人の住む地域では、
    駅のトイレに差別落書きが書かれていたりして、
    差別がけっこうあることを感じさせました。
    私が若い頃の話なので、今はどうかな?
    今は駅も綺麗になって、
    でも「差別落書きはやめましょう」
    なんていう貼り紙を時折どこかで目にしたりする。

    私は特に意識していなかったのですが、
    友人が被差別部落の人だと知ったことで、考えてみたのです。
    その友人は男性で、恋人ではなかったけれど
    もしこの友人と結婚したいということになったら、
    私は全く気にせずに結婚できるだろうか?
    周囲が反対するのではないだろうか。
    そう考えたとき、
    今まで自分の身近になかっただけで
    自分がその立場になったら、
    やはり私も差別する側になるのではないかと思ったのです。

    はっきりと差別を口にする別の友人もいますが、
    私自身はそれを聞く度にあまりよい感じは持ちません。
    でも身近に知らないだけで、自分は差別意識がないとも言い切れません。

    前の記事を自分で読んで、これも差別のひとつだと思いました。
    受刑者全ての人が極悪非道誠意なし ではないだろうとは思っても、
    枠にはめた目で見ていることに気が付きます。
    自分の身近に有罪となった人がいるからです。
    息子を殺した加害者が刑務所に入っていたかもしれないからです。

    差別や偏見は理解することで減っていくと思います。
    被差別部落についても、子どもの頃に教育を受けた人達は
    昔の世代に比べたら差別意識を持っている人は少ないと思う。

    今は差別というより、格差社会となっているけれどね。
    学歴、経歴、地位、収入その他etcで人を見下したりする人も多い世の中。
    またそういう人達が認められる社会。
    目に見える優れたものを持つと同時に
    精神も優れたものにしていければよいのに。

    私はどちらも持ち合わせていないし、
    受刑者の多くも持ち合わせていないだろうと思う。
    目に見えるものを得るのは難しい。
    見えないものはもっと難しいけれど
    その見えないもの=精神 を高めていくことの方が大事だと思う。
    見えないものの評価は他人にはできないことですが
    孤高を目指す矯正教育も、あってもよいのではないでしょうか。

    2008/03/08(土) 09:30:19
    この記事のURL | ひとりごと・日常 | CM(0) | ▲ top
    生命のメッセージ展in川越少年刑務所
    - 2008/03/05(Wed) -
    以前住んでいた家の近くには、刑務所がありました。
    年に一度くらい、刑務所作業製品即売会というのがあり、
    木工製品などが格安で販売されます。

    私は冷やかしに行ったこともないのですが、
    受刑者の手によってつくられたものが
    特に嫌だとは思ったことはありませんでした。

    ありませんでした というのは、今は違うということです。

    息子を殺した加害者は執行猶予がついたから
    刑務所には入っていません。
    また交通犯罪を起こした人は専門の刑務所に入ると聞いています。
    しかし加害者と他の受刑者がだぶります。
    受刑者=加害者のイメージを持つと、
    関係ないということはわかっていても
    受刑者の作った製品など手に触れたくないと思う。

    加害者が今生きていたとしても
    強い憎しみはないだろう。
    でも 嫌だ。

    と 加害者というものを持った私には
    刑務所はイメージの悪いところです。
    でも自分のしたことに真摯に向き合うことができるなら、
    そんな人間なら
    刑務所で矯正教育を受けて社会に復帰して欲しいと思う。
    矯正教育が効果があるかどうかは
    詳しくは知らないので私には何とも言えないけれど。

    私の知っている刑務所が
    どんな犯罪の人が入り 刑務所内がどんな環境なのかは知らない。
    知り合いの住職が、話をしに行っているということは聞いたことがある。
    真冬に暖房もなく、受刑者はかわいそうに背中にまでしもやけをつくっている
    と言う話を聞いたことがある。
    もうだいぶ前の話なので、今はどうなのかはわからない。
    その刑務所で最近自殺者が出た。
    刑務所は塀の中。
    受刑者も職員も、閉塞感があるのかと想像する。

    刑務所に限らず閉鎖された社会では
    視野も狭くなりがちですね。


    昨日と今日、
    埼玉県の川越少年刑務所で
    「生命のメッセージ展」 が開催されています。
    そのメッセージをどうか心に受け止めて欲しい。
    受刑者と受刑者を導く人たちにも。

    2008/03/05(水) 10:22:05
    この記事のURL | いのち、事件・事故 | CM(0) | ▲ top
    | メイン |
    上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。