飲酒事故は自然災害ではありません
    - 2011/02/25(Fri) -
    飲酒運転は悪だと言われるようになっても、厳罰化されても、
    どうしようもない人はいるものです。

    9日夜、福岡県で高校生2人が飲酒運転の乗用車にはねられて亡くなりました。
    その時 その場に居合わせてしまったのは、
    地震などの自然災害と同じように
    運命と片付けられてしまう懸念さえありますが、
    交通事故は決して自然災害ではありません。

    自然災害・・ニュージーランドの地震もありました。
    多くの方が亡くなられ、日本の若い人達にも、まだ所在のつかめない人達がいる。
    早く見つかって欲しい・・

    でも自然災害はどうしようもない。
    遺族にとってはどうしようもないだけでは終われないけれど、
    防ぎようのないということでは、
    私にも 家族にも 友人達にも誰にでも平等に、その可能性はあります。

    ですが、交通事故は防げないものではありません。
    福岡県の事故で亡くなった高校生の1人の、中学時代の同級生が
    飲酒運転撲滅に向けて何かしたいという思いを、メールに託しています。

    みなさんこんばんは
    私たちは
    多々良中央中学校の第35期生です。
    私たちは大事な友達を
    大人の勝手なわがままで
    亡くしました。
    ほんとに悔しいです。
    悲しいです。
    寛大の命返せって
    言ってやりたいです。
    でも今寛大の願いは
    私たちが元気に笑っていられることだと思います。
    今日(2月12日)はお葬式でした。
    地元が一緒だった全員が参加し、涙し、悔やみ…そんなお葬式でした。
    できることならもう1度寛大に会いたい
    そんな願いです。

    電話してもメールしても
    寛大から返事はありません。
    寛大は私たちの笑顔を
    見ることが何よりの
    支えになると思います。

    今私たちができることは
    寛大のために飲酒運転
    撲滅を呼び掛けること。
    それくらいです。

    これで寛大の力になれるのかは分からないけど
    このメールをできるだけ
    たくさんの人に回していただけたら光栄です。

    私たちの大好きな寛大の死を決して無駄にはさせません。

    呼び掛けよろしく
    お願いしますm(__)m

    多々良中央35期生
    高校1年生。一同。


    大切な友達のために何かしたいという、思いが伝わるメールです。

    「大人の勝手なわがままで・・」
    飲酒運転は正にそうですよね。
    お酒を飲んで運転するということは、とてもわがままな行為なのですよ。
    大人のくせに、何故それがわからないのでしょうか。

    ですが、少しなら大丈夫とハンドルを握ってしまうという場面、
    過去に私は何度も見聞きしています。
    お父さんがビール1杯飲んだところに、家族から迎えに来てと電話があった。
    お母さんはお父さんに、「迎えにいってやって!」と言う。
    何の罪悪感もなしに・・
    少ししか飲んでないから。
    大したことではないから。
    そしてお父さんは、車で駅まで迎えに行くのです。

    過去に、と書いたのは、
    今は厳罰化され、「してはいけないこと」→「したら困ること」となり
    控える人が多くなった、または内緒で・・という人もいるのではないでしょうか。
    絶対にしなくなった、ということではないと思います。
    多くの場合、そのような人は事故は起こす確率は低いとは思います。
    わかっていて多量に飲酒して、ハンドルを握る人とはまた別でもあります。
    それでも、その「大したことではない」という意識を持ってしまうということ、
    それを周囲も認めるということ、
    それは大きな誤りだということを、多くの人にわかってほしいと思います。

    恥ずかしい話ですが、私も過去に同じような経験があります。
    多分想像している以上に、同じような人は多いのではないでしょうか。
    高校生が送った1通のメール。
    多くの人が読んで欲しいと思います。
    そして、意識を変えて欲しいですね。
    この記事のURL | いのち、事件・事故 | CM(0) | ▲ top
    社会的責任
    - 2011/02/15(Tue) -
    埼玉県熊谷市で9人が死傷した事故の運転者の飲酒運転を
    黙認した2人に対してそれぞれ懲役2年の判決が出た。
    えっ たったの? と思ったけれども、飲酒運転による死亡事故を
    ほう助した人達も罪に問われたことを、喜ばなければならないかな。
    ほう助罪が適用されることが、当たり前にならなければいけないと思う。

    考えの足りない行いのために、苦しまなければならなくなった人達が
    この事故以外にもどれだけいることか。
    飲酒運転をする人だけが異質なのではない。
    その人の周りの、飲酒運転を正さなかった人達にも、同じ責任があるはず。

    別の、飲酒運転の犠牲者のご両親がテレビの取材に対して、
    「『運が悪いから事故にあった』 という そんな甘えをなくしていきたい」
    と話されていた。
    本当にその通りだと思う。
    事故を運のせいにするのは、甘えでしかない。

    誰かのせい 社会のせい 何かのせい。
    何か事が起これば、責任転換し他のせいにする人がいる。
    その人も、周囲の人も。
    自分たちに責任は全くないと思っている。

    いじめによる自殺もそうですよね。
    いじめている人はいじめることに罪悪感は持っておらず、
    周囲は自分には関係がないからと、見て見ぬふりをする人が多い。
    その無関心さが、いじめを助長するということに気が付かない。
    いじめる人はもちろん、その周囲の態度も大きな問題ではないだろうか。
    「いじめ」を「飲酒」に
    「自殺」を「交通事故」に置き換えても、ぴったりくるのでは?
    小さなことでも社会の縮図。
    1人1人がもっと 社会的責任について考えた方がよいと思う。
    「勇気を持って」
    と自分にも言い聞かせる。

    そう なかなか 言えないことでもあるのだ実際。
    私が繰り返し思い出すのは、あるスーパーでの出来事。

    家族を乗せた大柄の男性が、堂々と障害者専用の駐車スペースに車を置いた。
    見て嫌な気分になったけど、誤解だと困ることにもなるので、
    警備員に任せた方が良いと思い何も言わずに通り過ぎた。
    でも全員どう見ても健康そうに見える、夫婦と女の子2人の4人家族。
    その8、9歳くらいの長女と思える女の子に対し、父親が異様にきつく接している。
    父親は、ちょっとその子が遅れると怒鳴り散らし、
    店内でその子が迷子になり、大声で親を呼び泣いているのに気が付いていても無視。
    母親も知らん顔。
    その子が親を探し出し傍に行ったら、父親がまた汚い言葉で怒鳴り散らす。
    私には、その子は親に見捨てられる不安感で、情緒不安定になっているように見えた。
    虐待のひとつなのかもしれない。
    年齢から考えると落ち着きのない子どもであったから
    もしかしたら病気の可能性もあるけれど、
    親の接し方が原因にあるように思える、そんな感じの子ども。
    でも誰も泣き喚いているその子に声をかけない。
    私も離れていたとはいえ、声をかけられなかった。
    それはその人達がルール違反を堂々とし、汚い言葉を平気で使う、
    人間的に下らない人達のように見えたから、
    その子どもに対しても、冷めた目で見ていたからだったのではないかと思う。
    それが悔やまれる。

    関係ない話のようにも思えるけれど
    物事は全て繋がっていると思うのですよ。

    お酒を飲んで運転する、どうしようもない人に対し
    上記の家族連れを見た私のような反応をする人もいるのではないだろうか。
    もしくは無関心、近づかない人。
    関わりにならない方が、自分にとって安全だものね。
    「反省するため事故を起こせばいい」と 思う人さえいるのでは?
    でもその結果、何の罪もない人が被害を受ける。
    どんなことであっても、その社会的責任を自分のこととして考えてみれば
    世の中の悲惨な出来事は 少しは減るのではないかと思う。

    とはいえ 難しいことでもある。
    世の中には信じられないような人が多いから。
    下手したら自分が被害を受けるのだからね。
    それでも何か上手な方法を、考えられるようにしたいものだ。
    この記事のURL | いのち、事件・事故 | CM(2) | ▲ top
    魔法の言葉
    - 2011/02/06(Sun) -
    たけさん が紹介していた
    「五日市剛の魔法のサイト」 が面白い。
    トップページが凝ってますね。
    本はまだ読んでないけど。

    「ありがとう」
    「感謝します」
    「ツイてる」

    この3つが魔法の言葉なんですね。
    たけさんも同じこと言ってますね。
    斉藤一人さんもそうですね。

    私はね お金に対しては素直に
    「ありがとう」 言えます。

    お金に感謝して、支払います。
    お札も折れていたら直します。
    それで お金が喜んで私の元に戻ってくるか・・
    といったら
    来てくれたらいいけど 来なくても仕方ないものと思っているので、
    入った分 出ていく感じ。
    お金に対してそれ程執着はないです。
    必要な分は 欲しいけど。
    お金は生きていくために大切なもの。
    人のためにも 自分のためにも使えるもの。
    だから感謝して ありがとう。

    では植物には?
    よく忘れてます。
    植物に水をやるとき ありがとうと言ったら
    綺麗な花を咲かせるとか。
    でもすぐ忘れてます。
    そのせいか どうなのか よく枯らしてしまう。

    人にはどうだろう?
    言える方だと思います。
    どじにはもちろんだけど
    いろいろな人にお世話になって生きている。
    感謝ですね。
    でも 嫌な人に対しては 
    ありがとうと言うの忘れてしまっていますね。

    動物・・うちのみっちぃにはいつも ありがとうです。
    食べ物に対しても 感謝して ありがとう。
    自然にもありがとう というか 畏敬の念がありますね。

    と、完璧ではないけど ありがとうと言う心掛けは
    忘れないでおこうと思っています。

    だけど一つだけ、どうしてもありがとうと言えないものがある。

    それは 自分に対して。
    自分はどうでもいい そんな気持ちが大きいのですね。
    否定的なのですね自分には。
    聞こえにくい耳にありがとうも 言えないのですよ。

    でも2日程前だったか、心臓が痛かったのです。
    具合が悪いと、やっと死ねるのかなー とも思うけど
    実際今 死ぬのは少し困る。
    やりかけのことがたくさんある。
    ちょっと待って もう少し待って の気持ちが大。
    それにやっぱり本能的に 死は怖いものでもあるしね。

    幸いにも痛みはほんの1分ほどで、治まりました。
    その時に思いました。
    こんな私を生かすために 心臓がいつも働いてくれているんだな・・
    その時自然に 自分の体にありがとう
    と言えました。

    不平不満はあるけど 耳の調子も悪いけど
    やっぱり忘れずに ありがとう ですね。
    この記事のURL | ひとりごと・日常 | CM(0) | ▲ top
    掘り返しています
    - 2011/02/05(Sat) -
    ツィッターを始める人が多いけど、
    私はとてもそこまで手が回らない・・というよりする気がないので、
    ちまちまとブログだけ書き続けています。
    日々の記録でもあり
    感情の整理でもあり。

    春になったら、ブログを始めて6年になる。
    ここ以外に、4つの場所に分かれている今までの日記を
    全てではないけれど、少しずつここに移しています。
    何故そんなことをするかといえば、
    大切なものに改めて向き合いたいからですね。

    読み返してみて、忘れていたことを思い出したり。

    ある日の日記 に
    「加害者を許すことができない」 と書いてありました。
    今私は加害者を許すことに対しては放棄しているけれど
    いつそうなったのだろう? 思い出せない。
    何故そうなったのだろう? 思い出せない。
    これから読み返していくうちに わかるかも。
    この記事のURL | ひとりごと・日常 | CM(0) | ▲ top
    | メイン |