関わること
    - 2008/09/21(Sun) -
    京都の
    「犯罪被害者等度を支える府民の集い」 で
     「生命のミニ・メッセージ展」 が行われました。

    14名のメッセンジャー(オブジェ)達が集合です。

    来場された方は関連団体の方が多いそうですが、
    画一的な感じではなく、若い人達も結構おられました。
    子供さんの姿も。
    メッセンジャーと、時間をかけて向かいあう人が多かった。

    さてこの集い、
    第一部には市内の中学校の吹奏楽部による
    演奏と交通安全に関する演劇あり。
    寸劇もなかなか良いですね。

    その後風見しんごさんの講演。
    数分後に大切な家族が突然命を失うなど、想像する人はいない。
    起こってから気付くのでは遅い。
    自分達と同じような思いは誰にもしてもらいたくない。
    いつか 交通事故がゼロになる日を願っている。

    しんごさんの話されることは、
    交通事故の犠牲者の遺族誰もが思うことだと思います。

    事故からまだ1年と半年くらい。
    時折涙を拭いながら話される。
    多くの人が事故の悲しさ、恐ろしさを感じ取ったことでしょう。

    私は同じ立場の者だから、共感することは多い。
    でも経験のない人とはまた違う感じ方なのかな?
    なんて考えながら、でも伝わるものは大きいと感じながら聞きました。

    いえ、正確に言うと、見ました。
    京都府犯罪被害支援連絡協議会のお計らいで、手話通訳をつけていただきましたから。
    そして会員・・支援センターの人だったかもしれませんが・・、そのなかに
    要約筆記者の方がいらっしゃいました。
    要約筆記が必要な場合は派遣制度を利用するので、
    そこで要約筆記の仕事をされているのではありません。
    でも被害者支援に携わる人のなかに、聴覚障害に対して、知識と理解のある人がいるわけです。
    犯罪・・交通事故も犯罪です・・は、人を選ばない。
    もし聞こえない人が犯罪に遭ったとき、支援する側の中に聞こえないことへの理解のある人が
    いるといないとでは、大きな差があると思います。

    今日来られた聞こえない方は私を含めて数名で、
    たった数名の者のために、高額の通訳料を限りある予算のなかから準備していただいたことが
    本当にありがたく、そして申し訳なく思いました。
    そんなことを思う必要はないはずですが、
    私にはそれが当然の権利、だとは言えません。
    権利を保障されているろう者はまた違いますが、
    私のような健聴者でもない障害者ともみなされない中途半端な人間は
    要らぬことで肩身の狭い思いを感じることがあります。
    聞こえない人が僅かなら、そのための予算など取る必要がないと、
    当たり前のようにカットする人もいるのですから。
    少数派は切り捨てられる社会なのです。
    必要な者が必要なことを、当たり前のように受けられる社会であってほしいですね。

    それは犯罪被害者にも言えることかもしれません。
    以前は耐えることが当たり前だった。
    でも犯罪被害者が声をあげたことで、被害者に対する理解と支援が始まるなど
    少しずつ変わってきました。
    先進国の中ではまだまだ遅れているとはいえ、この10年で。

    でも関心のない人も多いです。
    人は自分に関係のないことに対しては、無関心。
    その人達に関わってもらうことが大事だと
    第二部のパネルディスカッションで話されていました。
    自分に降りかかってから目を向けるのではなく、
    関係がなくても関わることの大切さ、知ることの大切さ。
    なんでも関わることで、精神が育っていくものではないかな。

    そんなことなど考えられたのは、やはり通訳をつけていただいたからです。
    なければ、いつもと同じように蚊帳の外状態、
    頭も停止状態だったでしょう。
    ご理解いただいた主催者の皆様に感謝します。
    そして、やっぱり自分から蚊帳の外に出てはいけないのだと
    改めて思った次第です。

    2008/09/21(日) 22:17:55
    この記事のURL | いのち、事件・事故 | CM(0) | ▲ top
    <<探す | メイン | 忘れられない声がある>>
    コメント

    コメントの投稿















    管理者にだけ表示を許可する


    ▲ top
    | メイン |